それでも貴女は私の母

私にとって貴女は毒親だったのかもしれない。いつか必ずくる別れで後悔しないために、整理するためのブログ。

虚弱体質?

大人になった今でもそうだが、病は気からというのはそうであるように感じていて、とにかく私は身体が弱い。生きる意思というか気力というか、ポジティブな精神エネルギーが欠けているのだ。与えられた生をただ消化することの申し訳なさすら感じる。実は大病を患ったことはない。ただ風邪をひきやすく、風邪を引けば悪化し、長引き、また風邪を引く、というだけである。大病を患っていないのはどう考えても喜ばしいことだが、ともすれば虚弱体質としか説明がつかないもので、ことさらに申し訳なく思ったものである。

 

よく体調を崩していたので、いつも迷惑がられていた。空気を読まずに風邪を引くものだから、家族旅行は私にとって恐怖でしかなかった。外出先で熱を出したらどうしよう、一人で残してもらえない、母が残されることになる。ことさらに嫌そうにされてしまう。嫌だ。

物心着く頃、小学校低学年の頃には私はもうすっかり、自分の身体に幻滅していた。母が迷惑がっているのを完全に理解していた。そして主張を始めたのである。家族旅行の拒否だ。

 

小学校低学年の頃には、私は家族旅行を嫌がり、そしてその理由をちゃんと言えるようになっていた。理由はもちろん、出かけて具合が悪くなるかもしれない。そうしたら皆が楽しめない。だ。

そこは幼かったので、自分の主張が通らない理由が分からなかった。そう、小学校低学年の子供をひとり置いていくわけにはいかないのだ。祖父母と同居していなかったので、置いて行ってはもらえなかったのだ。説明してくれれば納得したものを。

小学校高学年の頃、あまりに私が嫌がるもので家族旅行を免除されたことがあった。その時は祖母が来てくれて、その時知ったのだ。私を一人で残しておけないから、主張が受け入れられなかったのだと。世のご両親に知ってほしい。子供は道理を説明すれば分かってくれることもある。どうか説明してみてほしい。大人の事情、というものを。

 

そうして何回か家族旅行を免除された。全く寂しくなかった。むしろ、家族が旅行で楽しんでいる間、私は迷惑そうに扱われることがない、とホッとしたものだ。これは本心からそのように思っているが、客観視するに、悲しい思考であるな、とは思う。でも当時の私はやはり、旅行に行けずにホッとしていたのだ。

 

熱には慣れていたが、痛みには弱かった。中学に入った頃から、片頭痛が始まったのだ。片頭痛、というのは頭が痛いだけの(風邪ではない)頭痛で使われることもあるが、緊張性頭痛ではなく、血管の拡張による頭痛だ。興味があれば調べてみてほしい。

この頭痛の厄介なところは、通常の頭痛薬がほとんど意味をなさない、ということだ。幸いにも発作の頻度は年に1、2回と少ない方だった。だが発作が始まれば、あまりの痛さに部屋の隅で丸くなって泣き、よろよろとトイレに行って吐き、嘔吐と涙に疲れて気絶するようにトイレで眠るのだ。この頭痛は6時間後、気を失うように眠るまで続く。

 

その頃にはもう母に甘えたいだとか分かってほしいだとかは、無駄な願いだと整理がついていたが、身体が弱れば心も弱る。つい、母に縋ってしまったことがある。その時のことは今でも後悔していて、戻れるようであればあの日に戻って、あの人に何かを期待するな、この痛みは必ず去るのだから、と諭したい。(他にもっとあるだろうとも思うが一番はこの日だ。それほどに傷ついた。)

その日の発作はひどいものだった。あまりにひどく、私はトイレで、大声で泣き喚いた。死んでしまいたかった。どうしてこんなに痛い思いをしなければいけないんだと、トイレで吐きながら泣き喚いた。夜中の四時だった。

高校生にもなった娘が、幼子のように泣くのだ。父は病院に連れて行ってやれ、と母に行った。母に連れられて夜間救急にかかった。

朝の四時、もうじき五時。なんて中途半端な時間だろう。わかるだろうか。病院の夜間救急からしても中途半端な時間だ。頭が痛いと泣き喚いているが、泣き喚く元気はある。あと数時間で開局だ。そう、私たちは待たされたのだ。病院の背もたれも何もない椅子で、寒々しい廊下で、薄暗い中、母と二人で。

あの時のこともよく覚えていないのだが、これだけは覚えている。痛い、痛いと泣く私に母が怒鳴った。

 

そんなことお母さんに言われても困る!

 

その時私は、あぁこの人とは何も分かち合うことはできないのだと絶望するとともに、心の底から納得した。それはそうだ。この人に言って何になる。

 

私の痛みも感情も考えも何一つ、全てが私だけのもので、分かってもらいたいなんて思うことが間違っているのだと。

 

私が大人になって精神のバランスを著しく崩した原因にもなった、しかし若かりし頃の私を支え導き守ったことは事実でもある価値観が、生まれた瞬間である。この日のことは忘れられそうにない。

 

ちなみに私は身体が思うようにならない辛さを知っているので、母や姉が体調を崩した時には一生懸命看病したものだ。お粥を作り、飲み物を枕元に置いたり、些細なことだったが。

そんなことをしてもらった覚えはないのに、そうして欲しかったのだろう。いじらしいことだ。昔の私が目の前にいたら撫でてあげたい。

 

母ほどのインパクトはないが、風邪を引いたと姉に伝えたら、うつさないでね、と嫌そうに言われたことがある。なんと素直な人だろうか。姉はそのまま自分の部屋にこもって出てこなかった。その頃には心がすっかり疲れていて、うつさないようにしないとな、としか思わなかったが、今思い起こすと胸が痛む。

 

熱を出すことが日常的だったので、私は早死にするものだと信じ込んでいたのだが、この年齢まで生きていられるだろうか、と思った年齢はすっかり追い抜いてしまった。風邪はほとんど引かなかった父は、10年も前に儚くなってしまった。そして私は、母との確執に心の整理はつかないままで、母が亡くなることを恐れている。

 

母を大事に思う気持ちもまた、私の真実だ。