それでも貴女は私の母

私にとって貴女は毒親だったのかもしれない。いつか必ずくる別れで後悔しないために、整理するためのブログ。

幼い頃の願い

 

 

体調を崩して、蓋をして見ないようにしている内容が漏れ出してきたので供養しようかと思う。

 

尊重について

 

私は姉と歳が離れていて、家族の中で下に見られていた。それは年齢としては明確に正しい。身体が弱かったことも影響しているように思う。

物心がつき、私は本をたくさん読んだ。物語の中で感情や振る舞いや関係性を学んだ。何故執着の先が本だったのかは覚えていないけれど、本を読むのは妨害されなかったからだったように思う。没頭したかったんだろう。


そのうちに自我を持った。善悪を考えるようになった。そうすると私の家族には不思議がたくさんあった。1番の不思議は母だ。

意味がわからなかった。言動が安定しない。何か外的要因があるように思うが、それがわからない。誰かに何かを言われたのか、体調なのか、他に条件があるのか分からないが、とにかく言ってることや私への態度が変わったり、分からないのだ。

戸惑い、質問をした。答えをもらえたことはない。今だってない。答えられないのだろうと、今ならば、そういう人なのだろうと思う。


ただ子供の頃は別だ。なんていったって、母の愛とやらが疑わしいのだ。私は疑っていた。なぜ疑ったのかはもう覚えていないが、活字の中で表現される家族や、友人の家に遊びに行った時に感じた空気に違和感を覚えていたのだと思う。

そのうちに私は確信した。私が求めるような何かをこの人からもらうことはできないと。それは今思えば、尊重だったのではないかと思う。愛の言葉や抱擁が欲しかったわけではない。私は尊重が欲しかった。


質問に答えてもらえない。ここでいう質問とは、幼少期の子供の無邪気な……空はどうして青いの?などの質問ではない。互いを理解するための質問だ。簡単なところでは青色が好きなの?コロッケが好きなの?のような内容だ。どうしてそんなことを言うの?なども含まれた。実は私はいまだに母が何を好きなのかよく分からない。観察してそうなのだろうと推察はするが、好きなものや嫌いなものを情報として教えてもらえなかったのだ。


そしてそれは逆もまた然りである。母は私の好きなもの、嫌いなものを知らない。いや、一つ二つは知っているであろう。それが好きだと公言はしなかったが、私は執着が分かりやすい子供であった。

私は甘いパンが嫌いで、朝ごはんとして甘いパンを食べることが嫌だった。買い物についていって主張したり、出てきた時にはめげずに主張したが聞き入れられなかった。何回言ったか分からない。ちなみに大人になった今でも伝わっていない。私は菓子パンが苦手だと何度言ったか覚えていないほどなのに、母の中では一回も言われていないのだ。もちろん大人になっても言った。無駄と知りながらも言うのは、どこかでまだわかり合いたいと願っているが故だろうか。


とにかく、菓子パンのような出来事の積み重ねで、私は尊重されていない、と考えていた。当時の私が、自分の求めるものを明確に理解していればまた話も違ったかもしれない。でも当時の私には、母との関係性で感じる違和感を言葉にすることができなかった。


そしてなお悪いことに、私と母では会話が成り立たないのだが、会話が成り立っている人がいたのでなおさらに混迷を極めたのである。姉だ。そして私は、どうやら私はまだ幼いので会話をしてもらえないらしい、と判断した。そして一時保留としたわけである。私が姉の年齢になるまでは、時期を待とう、と。我ながら早熟である。


数年が経ち、仮説には結論が出た。年齢ではなかった。

ともなれば私と姉の何らかの違いである。この違いについてはまだ答えが出ないが、きっと答えなどないのだろう。


質問に答えてもらうことを諦めるのが少々遅かった影響で、私はその頃にはもうすっかり面倒くさい子として扱われていた。執念深い、可愛げがない、面倒臭い、全て母から日常的に言われた評価である。ちなみに一度聞いてみたことがあるのだが、そのような発言を日常的にしていたことを母は覚えていないそうだ。本当に覚えていないのか、覚えていないふりをしているのかは分からない。何せ、帰省するといまだに菓子パンが出てくる。


思えば少しでも母を喜ばせたかったのだと思う。中学は受験をして、進学校に進んだ。

姉は高校は寮に入った。土日しか帰ってこなかった。私が中学にあがる頃、父が単身赴任になった。土日しか帰ってこなかった。母と2人の時間が増えた。

この頃のことを正直よく覚えていない。防衛本能もあるのかもしれない。私はその頃になると、このようにしか扱わないのであれば産まなければよかったのだと思っていた(今でも思っている)。子供が1人なのはちょっと、なんて曖昧な気持ちで2人目をのぞむべきではない。どのような気質の子供が産まれるのか分からないのである。私のように。そしてその子供たちが助け合うとは限らないのだ。私たちのように。


脱線したが、その頃になると私と母は一緒に食事をとることもなく、会話もなかった。条件は、2人でいる限り、である。外食していたわけではない。それが義務であるかのように(そうさな、食事は与えねば角が立つ)、食事は用意された。

さて、一人分の食事を食卓に出されて、疑問に思うだろう。一緒に食べないのか?と。私は聞いた。母はキッチンで食べてしまった、と言った。なれば次は一緒に食べようと誘った。そんな次の日はなかった。来る日も来る日も、母はキッチンで料理を作りながら先に食事を済ませた。何回か泣きながら訴えたこともあったように思う。どうして一緒に食べてくれないのか、そんなに私が嫌いなのかと。もちろん答えはなかった。疲れているとか、被害者妄想が激しいとか、うるさいだとか、執念深いだとか、こんなことを主張する私が煩わしく迷惑だと主張されたのだ。それこそしつこい私は何回かこの件で話をしたものだが、受け入れられなかった。そして諦めた。


諦めが悪いとは母の談だが、確かにそのような気質はあったものの、私にも言い分がある。土日である。土日、姉や父が帰ってくると途端に、我が家の夕食は家族団欒の場となるのだ。別に誰が話すわけではないので静かな夕食ではあったが、全員が場についた。また、外での私の扱いにおいてもそうである。外に出ると私は急に、自慢の娘になるのである。どんなに被害者妄想に取り憑かれ、どんなに執念深く、性格が悪くとも、外では自慢の娘なのである。母が少しでも喜んでくれたらと進学校に進み、そこにしか価値がないと信じ込んでいたのでそのまま、これまた進学校として名高い高校に進み、そして全国的に名の知れた大学に進んだのである。ともなれば褒められることもあろう。その時に母がどんな顔をしていたのかはよく覚えていない。どのような顔であれ受け入れがたく、私は目を逸らしていたのかもしれない。


そのように土日の食事時間と外での何の問題もないような家族としての扱いに振り回され、私の混乱は続いた。そして精神の混乱は肉体にも及んだ。私は指の皮を剥き、唇の皮を剥き、自分で自分をつねり、殴った。唇の皮は、今でもまだ、寝ている時にむいてしまう。痛いし何が良いのか分からないが、自分への罰なのだろう。彼女の思うような気質で生まれなかったこと、育たなかったことを無意識下に懺悔し、罰しているのだ。実に馬鹿馬鹿しい。


父に一度、母は私が嫌いなのだと、憎んでいるのだと訴えたことがある。父は困った顔で、そんなことあるわけがないだろう、と何の根拠もなく私を慰め、そうであればいいと願いながら父の懐で寝た。私が最後に父と一緒に眠った日だ。

そして私は自分でも私を慰めた。自罰的な行為を繰り返しながらも、自分の学力を何とか心の支えにして、その数字をみて、捨てたものではないと、自分を慰めた。

祖父や祖母も心の支えだった。彼らは私を褒めたり、ことさらに可愛がったりはしなかった。公平で、何より私を拒絶しなかった。ただただ、血のつながった孫と、学校はどうだとか、何を食べたいか、などと話をしてくれるのだ。それだけでよかった。

幼馴染の存在も大きい。彼女たちは、私のことを煩わしく思ったことも確実にあっただろう。申し訳なく思う。だが、いついかなる時も、私と喧嘩をし、仲直りをしてくれた。頭が上がらない。


尊重とは、たっとび、おもきをおくこと。私は私のどこかに価値をみとめて、私の主張におもきをおいてもらいたかった。母は意識して、私を軽んじたわけではないと理解している。けれど無意識は時に、より深く相手を傷つけるのだ。であればはっきり言われた方が良いとさえ思う。気が合わないのだ、一緒にいたくないのだと。どうして?なんて無粋な質問はしないであろう。一緒にいたくない、というのは感情である。感情は生まれ出るもの、その理由など後付けでしかないのだから。

私もまた、ただ単に、尊重されたかっただけなのだ。認めてほしかっただけなのだ。どうしてだろうか?人間が社会的な動物だからだろうか?母だから、家族だから、同じ家で生きる別の個体だからか?どうしてコミュニティの中で個人で有ることはこうも苦しいのだろうか。もう戻らないあの日々のことを考える。

 

そんなことを考え、泣きながら二度寝をした。これでも大人になってだいぶ分別はつくようになったのだが、思考は思考、感情は感情、ということだろう。それもまたしかたがないことである。

今日のこの感情を苦々しくもちゃんと受け入れて、いつの日か、どこかすっきりとした日が訪れることを願う。